ハーバード大学ライシャワー日本研究所

「通信」の世界の日本研究シリーズの記事 v. 3

(ライシャワー研究所のニュースレター「通信」より)


西洋の日本研究ーウィーン大学

マンツェンライター     研究助手・情報・関係担当者

 

現在のウィーン大学日本学研究所は、1965年に創立された。ウィーンでは、すでに当時から日本関連の研究に長い、独自の伝統があり、19世紀の東洋学者のA・フィツマイア、1939年の旧日本学部の創設を推進した民族学者岡正夫が、その基礎を築いていた。そのため、初期の研究には民族学的な接近が濃厚であった。現研究所長のS・リンハートが1978年に就任するとともに、研究の焦点は、日本社会と社会史の側面を強調するように変わった。 ヨーロッパの日本学研究所の大部分が依然として伝統的なパラダイムに取り組んでいた時に、ウィーンでは、研究者も大学院生も、「日本におけるレジャー」、 「日本社会と女性」、「高齢化による日本の社会変動」等のような、新しい研究領域を探り当てていた。

研究方法と課題の多様性が依然として本研究所の真性の特徴であることは争えない。近代日本社会の研究に持続的な関心を持つと同時に、リンハート所長は江戸時代の後期における遊びの文化に関心を寄せてきた。その他の学部の研究陣は、科学の歴史(S・フリューシュトック)、ジェンダー・スタディーズ(I・ゲトロイヤ・カーゲル)、比較演劇学(サン・キョン・リー)そして近代・現代スポーツやレジャーの社会文化史(W・マンツェンライター)、といったふうに専門化している。多産な研究結果の大部分は本研究所が編集している論文シリーズ『Beitrage zur Japanologie』に発表されて、現在第34号の出版が準備されている。研究所に関連があるその他の印刷物は、論文シリーズの『Schriftenreihe Japankunde』と、そして墺日学術協会が年4回出版する『ミニコミ』という雑誌に含まれている。

本研究所が目標としているのは、学術研究と日本の正しい理解のための手掛かりの普及ということである。さらに、本研究所に付属する部局が、韓国朝鮮学の研究と授業を提供している。経験豊かな外国語専門教師やそれぞれの言語を母国語としている教師が、学生の教育と訓練にとって重要な日本語・韓国語の授業を担当している。本研究所は、これまで日本の高等教育機関と長く親睦を保持してきた実績を持つ。こうした友好関係に基づき、一橋大学、法政大学、京都大学、東京都立大学、横浜市立大学等の大学と留学生の交換プログラムを実施することが可能になっている。

ウイーン大学日本学研究所はオーストリア唯一の日本学研究所であるため、最近のグロバライゼーションや国際化の傾向は、日本の文化と社会の研究・記録ならびに墺日相互理解を進展させる為に、今後更に本研究所の重要性を増やすであろうことは確かに違いない。

 

東洋の日本研究ークィーンズランド大学

ナネット・ゴットリーブ教授

 

クィーンズランド大学アジア研究学部の日本プログラムはオーストラリアにおける日本研究の拠点の一つで、自国のみならず外国からも多くの学生が参集しています。優れた語学力の習得が最優先課題である一方、学部の基本理念は語学学習が日本研究をはじめ法律、経営、経済、コンピューティング、科学、工学、政治、歴史、社会といった学問分野で幅広く役立てられることにあります。このことから大学は他の学部での日本関連学習と日本語・日本研究との二本だてで取得できるような様々な学位を提供しています。日本研究プログラム自体も語学コースに加え、数多くのコースから成っています。

常勤の日本関係スタッフ16人は日本語を母語とする者としない者の両方から成り、さらに学期毎にたくさんのスタッフが加わります。スタッフの多くは日本の国際関係と海外援助、日本語の書き方と書き言葉の近代化、明治期の文学、第二次世界大戦下におけるオーストラリアでの日本人収容者、日本における翻訳の歴史と日本語の応用・理論言語学といった方面で広く世界的に知られています。1995年には日本女子大学の井出祥子教授とオハイオ州立大学のJ.M.アンガー教授を基調講演者に招いてオーストラリア日本研究学会の隔年の会議を主催しました。

大学院レベルでは修士課程と博士課程があります。現在博士課程の学生は、漢字習得での戦略的使用、世界規模の環境課題に対する日本の外交姿勢、英語を使っての日本式労使交渉、翻訳理論の側面、英語圏外から来たの学生への日本語指導とアジア研究の教育方針、など広い範囲のテーマで研究を行っています。日本語通訳・翻訳の二年間の修士課程プログラムには世界中から学生が集まっています。これは日本語の会議通訳者、上級翻訳者の養成でNAATI から正式認可されているオーストラリアで唯一のコースです。

 

西洋の日本研究ー最近のロシア

アレクセイ・ザゴルスキ     世界・国際関係研究所係研 究所著

 

1991年のソビエト連邦の崩壊以来、旧ソ連下で組織化された日本研究の部分をロシアが引き継いできました。この日本研究への取り組みは、ロシア科学アカデミーの枠組みの中で、いくつかの大学院、大学、学術研究機関で行われていますが、広がりという意味ではまだ限られた状況です。  

日本語や日本の経済、歴史、政治、文化といった様々な社会科学研究領域の授業は、モスクワ国立大学のアジア・アフリカ研究所、サンクトペテルブルグ国立大学の東洋学部、ウラジオストックの極東大学、国立モスクワ国際関係研究所そして外交アカデミーで受講できます。日本語コースは、これら以外の都市でもノボシビルスク、オムスク、ハバロフスクといったシベリア地域で最近大変人気が出てきています。しかし、これらは語学の習得に限られており、日本についての包括的な教育は行われていません。残念ながら日本についての系統的な研究は、独自の研究計画を持つ常勤教授のいる大学に限定されています。  

最も優れた日本研究は、専門のセンターを持つ大規模な研究所を抱えるモスクワに長期集中しています。東洋研究所(サンクトペテルブルグにも研究所あり)の日本研究センター(所長アンドレイ・クラウセビッチ教授)は、伝統的に語学と日本史の中核的機関とされ、日本経済の専門家チームやさらに的を絞った視点からの現代政治研究を行っています。極東研究所(IFES)の日本研究センター(所長ビクトル・パウヤテンコ博士)は現在の経済、政治、安全保障に焦点をおき、ロシア科学アカデミーから公に日本研究の中核と位置づけられています。世界経済・国際関係研究所(IMEMO)のアジア太平洋研究センター(所長バレリー・ザイツェフ教授は、ヤコブ・ペウズナー教授の後継者による長い伝統を持つ日本経済研究で最も有名ですが、1980年代後半には的を絞った政治研究にも取り組み始めました。何名かの専門家はアメリカ・カナダ研究所とも提携していますが、アジア太平洋研究所はアジア太平洋地域を網羅しています。この他にロシア政府関連としては、国際関係研究所と外交アカデミーが、通常、日本関連コースに日本の研究機関または外務省から非常勤講師を招聘しています。  

1991年に国際交流基金の支援で現代日本研究センター(会長 アカデミー会員のアレクサンダー・ヤコブレフ、所長バレリー・ザイツェフ教授)という包括的な組織が設立されました。このセンターはロシアでの日本研究を支援し、モスクワにある主な学術研究機関の活動の調整を図り、国際交流基金が提供する若手研究者・講師向けの特別奨学金プログラムの促進も担っています。  

日本研究について掲載する主な学術出版物には、東洋研究所と極東研究所による編纂でナウカ出版から出ているIaponiia Iezhegodnik(日本年鑑、1971年創刊)と, 現代日本研究センターにより発行されている季刊のZnakom'tes Iaponiika (日本との出会い、1992年創刊)があります。また時折、日本関連の記事が掲載されるのが、極東研究所による Problemy Dal'nego Vostoka(極東時事)で、これはロシア語、英語、日本語で発行されています。他にも世界経済・国際関係研究所のMirovaia ekonomika i mezhdu-narodnye otnosheniia(世界経済と国際関係)や東洋研究所のVostok(東洋)などがあります。これ以外にも現代日本研究センターは提携する研究所による論文の発行を支援しています。  

他の人文社会科学分野と同じように、ロシアでの日本研究も資金配分の変化や政府の財政難といった全般的な経済事情のため、資金的に厳しい状況にさらされています。モスクワの諸研究機関は、連邦予算からロシア科学アカデミーに渡される不安定で不十分な財政配分に大きく依存しています。研究費用を提供する基金の不在と(1990年代のロシアで唯一機能しているのはジョージ・ソロス基金のみです。)ビジネス界からの支援を引き出すに十分な魅力がないことから、連邦予算以外の収入源は外国からの助成金や国外で計画されたプロジェクトに限られています。このような状況のため、現在ロシアの日本研究の資金源は国際交流基金や東京の様々な研究機関との合同プロジェクトに多くを依存しています。  

1992年から授業料徴収の制度が広く採用されたため、学部レベルで日本関連のコースを持つ大学では教授陣の報酬を上げることができ、状況は改善されてきています。しかし、歴史的に旧ソ連の社会科学研究の枠組みの中で、大学は規模の大きい研究機関に中心的な役割を譲り副次的な役割を担ってきました。その上、日本を専門とする教授ポストが限られ、組織化した研究プロジェクトや適切な出版機関も不足しており、これが大学での安定した学術研究を妨げる要因となっています。このようなギャップを解消するために、教授陣が機会ある毎に論文を出版することを大学が奨励するのは可能ですが、日本についての包括的な研究も各大学の能力を越えているのが実状です。

資金難はいくつかの破滅的傾向を生みだしています。第一に、学術研究機関における給与が全国的に最低レベルに近づきつつあります。この傾向は若い世代が大学院に進み学術研究に取り組もうとする意欲を挫いています。1990年代には、30代、40代の特別研究員がビジネス界や公務員の高い地位に転職していくのをどの学術機関も経験しており、このため研究員が不足し新規採用も非常に難しくなっています。公式には旧ソ連時代とほぼ同じ組織的枠組みが存在するにもかかわらず、この傾向は日本を専門とする研究者の数を一気に減少させました。

二つ目の傾向として、資金難は日本での研究を困難にしているだけでなく、図書館で閲覧できる日本の書籍や雑誌の極端な減少にもつながり、研究に必要な基本的な情報さえ不足しています。国際交流基金に支援されている現代日本研究センターの創設によりこれらの問題はある程度緩和されてはいますが、このセンターを利用できない人、特に若手研究者にとって、非常に厳しい現状が続いています。

研究員の数が限られており、最新情報を得る機会も不足していることから、最も有力な学術機関でさえ、日本研究の主な分野を網羅するプロジェクト(旧ソ連時代には政策的な性格づけが成されていた)の支援ができなくなってきています。しかし今後もこれら学術機関が経験豊かな研究者グループと連携し、最も重要だと思われる課題や個々の人々にとって興味深いテーマに的をしぼってレベルの高い研究を維持することは可能です。にもかかわらず、日本社会の全体像や最近見られる事象に注目するというのは、それらの機関にとって今のところ到底考えられないようです。しかも、この可能性は長年研究を続けてきた世代が退職した後、更に薄れていくでしょう。

 

  東洋の日本研究ー中国の概要

劉江永      中国中華日本学会著

 

 中国における日本研究は人文科学、社会科学のほとんどすべての分野におよんでおり、世界の日本研究において、重要な地位を占めている。1995年には、中国大陸の日本研究者の数は、すでに千人を超えており、台湾にいる約600人の日本研究者をも加えると1600人以上に達する。その数はアメリカの日本研究者を抜き、世界一となっている。中国の日本研究機関は約60ケ所あり、アメリカの117ケ所に次ぐ世界二番目の数である。戦後中国における日本研究は、次に述べる四つの時期を経て来たと思われる。

 第一の時期は、1945年から1955年までである。内戦及び冷戦の状況の下では、中国の日本に関する学問的な研究は、ほとんど空白な状態であった。この期間、唯一遼寧大学の日本研究所一ケ所が1946年に発足したにすぎない。

 第二の時期は、1955年から1972年までである。中日国交正常化の実現を計るため、中国政府は一層日本研究の重要性を認識し、北京や上海を中心に全国各地で13ケ所の日本研究機関を設けた。だが、「文化大革命」の影響によって、学問的な日本研究は一時的にまひ状態となった。その発展は決して順調とは言えなかった。

 第三の時期は、1972年から1989年までである。1972年に中日国交正常化が実現した後、中国における日本研究は、本格的に発展し、かつて見られなかった日本研究のブームが起きた。この時期、約35ケ所の新たな日本研究機関が全国各地で設けられたのである。その中、大学の日本語学部と研究所は主に日本語、日本の文学、歴史と文化を研究し、教えている。中国の中央と地方にある社会科学院の日本研究は、日本経済、政治、外交、社会、歴史と宗教を研究し、また国の日本研究プロジェクトを請け負って研究活動をおこなっている。政府関係の研究所は、学術研究をするだけでなく、政策決定過程の中でも重要な役割をはたしている。

 第四の時期は1990年からと言える。1990年2月に、中国大陸で初めての各研究分野を含む全国的な日本研究学術団体(中華日本学会)が北京で誕生したからである。中国の日本研究機関と研究者は、ほとんどこの学会に属している。中国におけるそれぞれの日本研究機関は初めて分散状態に終止符を打ち、全国的な日本研究のネットワークを形成した。これらの学術活動は特に日本の大使館と国際交流支援団体によって可能になった。

 90年以来、中華日本学会と中国各地の日本研究機関の努力によって、中国の日本研究水準が著しく向上し、研究成果も次々と出て来ている。国内における日本研究の交流と協力が盛んになり、各地の研究者はそれぞれの研究を続ける一方、互いに協力し、鼓舞し合うことが可能になった。

 80年代以前、中国の日本研究は、主に北部に集中したが、90年代から、五つの地域に全面的に拡大した。黒龍江、遼寧、吉林各省の大学を中心に中国東北地域の日本研究が形成された。そこでは、日本語教育の他、戦後の日本経済、地方政治、法律及び北東アジア経済圏に関する研究が行われている。また北京、天津の大学や社会科学院及び政府関係の研究機関を中心に中国の華北地域の日本研究集団が形成された。これらの研究機関は、日本の歴史、語学、文化、民族、宗教などの研究以外に、日本の政治、経済と外交の現状分析と展望にも力をいれており、中国における日本研究の中心的な役割をはたしている。中国華東地域における日本研究は、上海、杭州の大学と研究機関を中心として形成されている。そこでの主な研究分野は、近代日本であるが、この地域と日本との関係も研究されている。河南、陜西、四川各省の大学は主に日本語の教育と日本歴史の研究を行い、中国内陸地域の日本研究を確立したのである。福建、廣東、台湾各省及び香港もそれぞれ独自の日本研究を推し進めながら、中国華南地域の日本研究を確立しつつある。しかしこの地域の日本研究者間の学術交流は限られたものになっている。もちろん台湾で多くの日本研究者や研究書が出版されているのは既知の通りである。    日本研究に関する国際交流も、進展しており、中国の研究者の視野がそれによって拡大された。1990年の秋に、中華日本学会が主催する日本研究国際会議が北京で開かれ、日本、カナダ、オーストラリア、旧ソ連、米国からの学者が出席した。これは中国の日本研究にとって重要な一歩であったと言えよう。

 また、1995年に、戦後50周年を記念する意味もあって、中国現代国際関係研究所とオーストラリア国立大学の共催によって、アジア・太平洋情勢と中日関係に関する国際会議も北京で開かれた。これは、中豪間で開かれた初めての日本研究会議でもあった。言うまでもなく、1990年から中国と日本両国間の国際会議も一層頻繁に行われている。 

 中国の日本研究水準が向上し、研究成果も大幅に増加している。いま、中国で出版される日本研究の専門誌は、10種類以上に達し、毎年日本に関する研究論文はおよそ千本以上に昇ると思われる。その中で、特に中華日本学会と社会科学院の日本研究所の共同編集する「日本学刊」がその代表的な学術誌となっている。80年代までには、中国で出版された日本に関する本は、日本語の本から中国語に訳されたものが多かった。しかし、1990年から、中国研究者による日本研究の著書が増えた。    若手研究者が大きく成長し、研究チームの質も改善されつつある。今、中国の日本研究の担い手は30才から50才までの中堅或いは若手研究者であり、研究者全体の約60%を占めている。これらの日本研究者は、ほとんどが日本での研究経験を持っている。日本で博士号を取った人や、前期博士課程を修了した後に帰国した人も一部いる。これらの人々は中国における日本研究の重要な役割をはたしているのである。

 現在、中国における日本研究の直面している問題は、主に三つあると思われる。一つは研究資金不足の問題。日本研究に必要な出版費や、コンピューター化の設備調達などによる研究コストの上昇がその原因の一つとなっている。二つ目は、研究人材の育成と確保の問題。80年代からかなり有望な若手中国人日本研究者及び留学生が、日本で留学した後、そのまま日本で就職したり、学問的な研究をやめて、ビジネスの世界に入ったりするケースが増えた。三つ目は、英語という言語の問題。現在の中国人の日本研究者は、一般にあまり英語が話せない。または英語の文献の解読になれていない人が多い。そのため、豊富な英文の日本研究の成果が、あまり中国人研究者の間で知られていないのである。

 今後の課題として、以上のような問題を解決し、中国の日本研究の水準を一層高めることが必要であろう。またこれからの5年間、中国人の日本研究者は、21世紀における日本の発展について、もっと強い関心を持つようになると思われる。日本研究に総合的、専門的、理論的な知識がますます要求され、日本に関連する地域研究や、比較研究なども一層活発なものになるであろう。コンピューター化の進展によって、中国における日本研究のデータや情報交換も便利で迅速になるとも思われる。

今後、中国とアメリカという二つの「日本研究大国」同士としての交流も非常に重要でかつ有意義なものになるのではなかろうか。アメリカの日本関係基金や研究機関がより積極的に中国人の日本研究者や学生にアメリカで勉強する機会を与えることを望む。中国側もアメリカ人日本研究者が中国で中国語の勉強をし現地の日本研究者と交流するのを歓迎すべきであろう。中米両国の日本研究者が共同研究プロジェクトを作ることや、国際シンポジウムを開くことも考えられよう。われわれによって、21世紀に米中間の日本研究交流の新しいチャンネルとネットワークが作られることを心から期待している。

東洋の日本研究ー最近の中国

銭国江 南開大学国際研究所

 

中国の日本研究は、特に80年代以後、大きな発展を遂げた。その実態を言うと、研究機構の整備、研究者の増加、研究内容の多様化を挙げることができよう。

中国の日本研究の機構は、大きく分けると、大学関係、社会科学院関係、政府関係、民間関係がある。大学には、全国の大半を超える日本研究者がおり、研究機構も40ヵ所あまりある。その専門分野は歴史、経済、社会、文学、言語にわたっている。歴史部門では主に南開大学歴史研究所日本研究室及び同大学日本研究センター、北京大学歴史学部日本史研究科、復旦大学歴史学部日本史研究室などがある。経済社会では主に対外経済貿易大学国際貿易研究所日本研究室、南開大学経済研究所世界経済研究室、復旦大学世界経済研究所日本経済研究室などがある。文学、言語部門は広く20ヵ所近くに上っている。上海外国語大学、広東外語外貿大学、北京外国語大学及び大連・西安・四川・天津等の外国語学院ではみな日本語・日本文学部が設けられており、北京大学、南開大学、複旦大学ではみな日本語や日本文学研究室がある。

南開大学歴史研究所日本研究室は、特に日本歴史の研究で知られている。当研究室は1964年に作られ、優れた研究者を数多く抱え、国家プロジェクトを請け負ったりする代表的な日本研究機構の一つとなっている。同研究所には日本研究で中国最初の博士課程を設けており、すでに10数人に博士学位を出し、その教員と博士号取得者の研究成果は数多く中国や日本などの出版社から出版されている。

社会科学院系統の日本研究機構も中国の日本研究を担う重要な拠点である。なかでも中国社会科学院日本研究所は中心的な役割を果たしている。1981年に創立された当研究所は規模が大きい。研究者の数は60名近くおり、なかには政治・経済・文化及び教育研究室と図書資料室が設けられ、所内では全国的な学術誌『日本問題』(隔月刊)を刊行している。

 

  西洋の日本研究ーマドリッド大学

東アジア研究センター(CEAO, Centro de Estudios de Asia Oriental) は1992年にマドリッド自治大学(UAM,Universidad Autonoma de Madrid) 内に創設され、CEAO、カントブランコ・キャンパスの学長棟内に位置している。UAMは1990年代初頭に教育科学省によって行われた唯一のスペインの大学評価調査でトップにランクされている。スペイン王室のフェリペ皇太子も同大学で学ばれ、法学及び経済学の学位を取られた。CEAOはスペイン国内で初めて公式に創設されたこの種の機関として、東アジア諸国、特に日本と中国に注目し、その文化、社会、経済、政治の各分野に関する研究活動及び教育活動を行っている。学部及び大学院レベルの講座、セミナーだけではなく、大学教育課程外での講座でも教育活動を行っている。スタッフは全員、国内外での様々な研究調査活動に従事している。この様な活動を通して、UAMに於ける東アジア研究の基礎を着実に築いている。また定期的に行われるシンポジウムに加えて、公共機関や個人に対する翻訳、資料提供、その他のコンサルテイング・サービスも行っている。

CEAOのシニア・メンバーはセンター長であるタシアナ・フィサック常任教授(中国語・中国文化博士)、サントス・ルエスガ教授(日本経済)、高木香世子助教授(日本語・日本文化)、ピラール・ゴンザレス・エスパニャ講師(中国語・中国文化)、フランシスコ・マルコス・マリン教授(中国言語学)、マイケル・プロッサー教授(中国社会)及び、杜文彬(Du Wenbin)(司書)である。ジュニア・メンバーはレイラ・フェルナンデス・ステンブリッジ(中国経済)、グラデイス・ニエト(中国人類学)、エルナ・ガルシア・エレロ(司書)、ハビエル・サラマンカ(中国言語学)、ルイサ・ララ(中国言語学)及びビクトル・M・ベニト(中国研究)である。准メンバーには戸門一衛教授(日本経済)及び張寶璋教授(Zhang Baowei)(中国美術・建築)、現在、客員講師として今枝亜紀(日本語)及び傅筱芳 (Fu Xiaofang) (中国語)がいる。

4年前の創設以来、CEAOの活動は何よりもまずマドリッド自治大学当局の多大な援助によって支えられてきた。UAMはスペインで初めて中国研究及び日本研究を大学教育課程に取り入れた大学であり、東アジアの言語・文化研究分野に常任教授職を置いたのもUAMが最初であった。その他にもまた、CEAOの活動は中でも以下の政府機関、非政府機関より提供された研究助成及び教育基金等に負うところが大きい。スペイン省庁間科学技術委員会、スペイン外務省、スペイン国際協力庁、国際学術交流基金、中国教育員会、蒋軽国(Chiang Chingkuo)国際学術交流基金会、講談社、ティエマ・インターナショナル・コーポレーション、富士通及びブリティッシュ・カウンシル。

CEAOはオックスフォード大学の現代中国研究センター、ハワイ大学の中国語・中国文学学部(マノア校)、ナポリ大学の東洋研究所、ボルドー大学の極東研究学部、コレヒオ・デ・メヒコのアフリカ・アジア研究センター、北京外語大学、浙江(Zhejiang)美術アカデミー及び日本の北陸大学と公式協定を結び、交流プロジェクトを行っている。また、ユネスコのスペイン語での東アジア文学シリーズの総合編集責任機関に任命されている。 (e-mail: ceao@uam.es)

 

東洋の日本研究ー日本アジア協会

ロナルド・スレスキー

 

東京での順調で活発な活動ム日本アジア協会はあらゆる分野のアジア研究者の参加を歓迎しています。

日本アジア協会は明治維新からわずか5年後の1872年に横浜で創設されました。日本人が自国の外に目を向けるのに懸命になっていたちょうどその時期、日本に居住していた主にイギリス人とアメリカ人の外交官、実業家、宣教師からなるグループが、日本についての知見を深めるための定期的な会合を持つことで意見が一致しました。当時、英語で書かれた日本についての学術的な文書は非常に乏しく、会合で語られることすべてがメンバーにとって新鮮かつ驚きの連続でした。意識していなかったとはいえ、彼らは新たな学問分野、日本研究の誕生への足がかりを築いていたのです。会員は講義からなる月例会と「日本アジア協会会報」の年一回の発行を活動の二本柱として取り組みました。

125年経過した現在、やはりこの二つが東京の日本アジア協会の会員にとっての中心的な活動であり続けています。講義は通常第二または第三月曜日に行われ、あらかじめジャパンタイムズやその他の英字新聞紙上で告知されます。今や第四シリーズにいたり、幾多の号数を重ねた「日本アジア協会会報」は文体や様式が刷新され、そのレベルの高さも従来と変わるところがありません。

協会は発足当初から英語での講義と出版をその活動として挙げてきました。日本人も早い時期から会員として迎えられ、現在も役員ならびに会員として活動に一役買っています。歴史上、協会の会員で最も有名な日本人といえば明治政府で文部大臣を務めた森有礼でしょう。森氏は1876年に初めて協会に参加し、暗殺された1889年の時点でも会員でした。歴史的に重要な役割を果たした数多くの高名な日本人の学者や役人が過去に会員として名を連ね、大正、昭和初期の政府関係者や大学の学長もかなりの数にのぼっています。

戦後、協会は皇族からの熱心な支援を受けています。例えば、1992年の設立120周年記念の際には、皇太子にご自身の日本史の研究についてお話いただきました。1997年には協会の長年に渡る支援者であり、会の集まりにもしばしば参加されてきた高円宮殿下ご夫妻を名誉後授者としてお迎えしました。

役員ならびに招待講演者として協会に関わった欧米人には、初期から現在にいたるまで、知る人ぞ知る日本研究の名士の名前が連なっています。日本史についての欧米人研究者として草分け的存在のベーセル・H・チェンバレンとアーネスト・M・サトウ、現在も使われている日本語のローマ字表記法を生み出したJ・C・ヘボン、明治日本を鋭く観察した G・B・サンソム とラフカディオ・ハーン。長老教会の宣教師だったオーグスト・ライシャワーは26年間にわたり会員でしたし、彼の息子、エドウィンは1960年代初期に日本駐在アメリカ大使となり、会の評議委員に選ばれています。(ハーバード大学のライシャワー研究所は、エドウィンにちなみ名づけられました。)最近の参加者としては、日本大衆文化を見守るドナルド・リチー、協会の代表を務めたことがあり「モニュメンタ・ニッポニカ」の編集長であるマイケル・クーパー、そして東京滞在時に出席するアメリカ人日本研究者の長老、ドナルド・キーンがあげられます。   

きわだった歴史と特別な親交のため、日本アジア協会を若手の研究者を歓迎しない閉鎖的なクラブと見るむきもあるようですが、事実はまったく逆です。日本アジア協会は日本ならびにアジア近隣諸国に学問的関心のあるあらゆる人、特に東京近辺に居住し月例会に活発に参加できる人の入会を歓迎しています。また、将来日本研究の分野に貢献するであろう若手研究者の参加を強く希望しています。

会のメンバーには前回と次回の講演についての報告ならびに会のニュースが掲載された月刊の会報のほか、年毎の会報も送られます。今後東京に滞在予定があり協会での発表を希望する方は、あらかじめ(できれば数カ月前に)プロポーザルを用意して東京の協会に連絡してください。会報の入手または会報への論文の掲載をご希望の方は東京の編集長にご連絡ください。現在の代表者、編集長は信望があつく、また学者としてアジアについての論文で広く知られるギリシャの駐日大使ジョージ・シオリス氏です。

協会の連絡先ムMrs. Noriko Iriyama, The Asiatic Society of Japan, OAG Haus 7-5-56 Akasaka, Minatoku, Tokyo 107 Japan. Tel 81-3-3586-1548; Fax 81-3 5572-6269 Internet: http://tiu.ac.jp/~bduell/ASJ

(ロナルド・スレスキー博士は日本アジア協会に1981年に入会し、1987年から94年まで、会の代表を務めました。)

Associate Professor Nanette Gottlieb, Department of Asian Languages and Studies, University of Queensland, Q 4072 Australia. Ph: (07) 3365 6393 Fax: (07) 3365 6799 E-mail: Nanette.Gottlieb@mailbox.uq.oz.au

 

西洋の日本研究ー  ベルリン日独センター

             ミハイル・ニーマン          ベルリン日独センター

ベルリン日独センター(Japanese-German Center Berlin) ドイツー日本、日本ーヨーロッパ、ヨーロッパーアジアの学術交流のための場です。当センターの目的は済や実際的な事柄に学術的、かつ学際的に、現在と将来に照準を当てて取り組むことで。大学や企業、財団、各種団体、政府、NGOと連携し、会議、セミナー、展示、コンサトのほか、語学や日本紹介のコースも開催しています。しかし、ベルリン日独センタは文化機関ではありません。そういった役割はケルンにある日本文化センターや東京大阪、京都にあるゲーテ・インスティテュートが果たしています。当センターへの資援助は、日独両国から供与されています。

社会科学分野の会議では、二国間・地域間・国際間における日独の政治・経済関係、資への国際協力、産業面での協力、開発援助、国内法・国際法への問いかけ、地域的そて地域の枠を越えた発展、交通・地域開発における計画の統合について討議されてきまた。日独双方が関心を寄せるテーマで比較を行うよう多大な努力が払われています。例ば、教育とキャリア、青少年に対する政策、高齢化社会などです。更に、ドイツにおけ日本研究、日本におけるドイツ研究、両国における学問に対する姿勢も討議されました

自然科学分野の会議では、数学、化学、物理が取り上げられてきました。これらの中は、情報・コミュニケーション技術の国内外での発展、テクノロジーがもたらす影響の価、医学と獣医学、バイオテクノロジー、遺伝子工学、エネルギー、環境・自然保護がります。

人文科学の会議では、東洋文化と西洋文化の対話、労働と余暇をめぐる論争での文化相違、教育と学習、集団と個人の関係、日独の女性文学と青少年文学、メディアが創出る報道とイメージなどが取り上げられてきました。またこれらに関連して、日独の芸術による共同展示や両国の作曲家と音楽家によるコンサートを主催してきました。

ベルリン日独センターはドイツだけではなく、日本でも会議を開催しており、そのテマは、「日本とドイツの生活の質」「首都としてのベルリン」「ベルリン、未来都市2000年のビジョン」「核兵器の非拡散」などです。センターが主催するイベントでドイツ語・日本語の翻訳・通訳の提供をしている他、様々なレベルの日本語コースを社人・学生向けに開講しています。

更に、日本に関する様々な入門セミナーも開催しており、将来日本に派遣されるボンドイツ人外交官のための日本講座、ベルリン駐在のCIS (Commonwealth of Independent States)、中央・東ヨーロッパ諸国の外交官のための日本講座、若手起業家と学生のためのドイツ・日本講座があります。

ベルリン日独センターは7,000冊以上の参考図書を所蔵する図書館を持っており、そうち約60%が日本語文献です。コレクションの焦点は参考図書、百科事典、専門図書、ノンフィクションそして日本の経済・政治・社会・文化についての教科書類です。ータベースの利用はセンター内で可能で、1945年以降ドイツ語に翻訳されている約1,000日本語研究論文と1477年から1985年に渡る約11,500のドイツ語での日本関連版物の検索は特記すべきでしょう。

センターのニュースレター「JGCB エコー」はドイツ語、日本語、英語で隔月発行されており、会議報告、イベントの紹介、各種活動の情報を掲載しています。会議の内容寄付については、会議でどの言語が使用されたかによりドイツ語、日本語、英語のいずかの言語でシリーズで出版されています。センターは日独両国の外務省によって共同編された日独協同事業の名簿を発行しています。1997年秋には19世紀と20世紀のベルリンと東京を紹介する本を編集しました。スプリンガー出版社から出たこの二カ国語のは、1997年のドイツの最も美しいドイツ語の本に選ばれ、イラスト書籍財団から最優秀賞を授与されました。

ベルリン日独センターは更に様々なプロジェクトにも参加しています。日独対話フォラム(GJDF)は1993年に開始され、政治、経済、科学、文化、メディア領域から高名な人々の参加も得ています。この会は年に一度日本またはドイツで開催され、両政府への進言を通して日独関係強化に務めています。このフォーラムでは国連、国際的地域的安全保障問題、国内外の進行中の政治問題、二国間関係における日独両国の役を討議します。当センターはドイツ政府側の日独対話フォーラム事務局の役割を果たしいます。

東京に設置されたハイテク及び環境技術に関する日独協力評議会(GJC)は日独の産業・科学・政治領域からの代表者で構成されています。この委員会は先端技術と環境テノロジー分野で両国の産業的・技術的協力が可能かどうかを調査・鑑定します。中でもリサイクル、クリーンエネルギー生産、技術移転、情報技術の刷新の方法に特に力をれています。評議会は仲介役として務めるワークショップに重要性を置き、その内容をリーズとして出版しています。当センターはドイツ政府省庁の上記評議会プロジェクトネージャーとしての任務を担い、ボンにドイツ代表団の事務所を開設しました。

1997年、日独政府は両国間における青少年や若手職員の交流の活発化を決めました。このため日独青少年交流推進室(GJYE)が当センターに設置されました。この部署は関連諸機関の名簿の編集を含む各種交流プログラムの情報提供と二国間の青少年交推進の場として機能しています。高校・大学生ならびに様々な企業・機関の若手職員を象に新たに開設されたプログラムのコーディネイトをする他、ドイツ人が日本に滞在すためのインターン制度の数を増やすための対策にも取り組んでいます。また、インターットを通じた日独の学校間の交流も促進しています。

最後に、当センターに基盤をおく欧州日本専門家団体(EJEA)はサマースクールや会議開催のためのネットワークや協力関係作りに務めています。その活動は1997年と1999開催の「エコロジーとエコノミー」についての日欧サマーキャンプ、1998年ナポリでの「日本と地中海」と題した会議、そして1999年にアテネとサントリーニ島で開催の会議などです。

 

西洋の日本研究ー    ブラジルでの日本研究(下)

              ロナン・アルベス・ペレイラ      ブラジリア大学

 

この前の「通信」で叙述されたように、ブラジルでの日本研究の展開が良い結果を生みし、日本研究はブラジルの諸機関で深く根をおろしました。とはいえ、アジアや日本がラジルにとって優先度の高い地域となったわけではありません。それどころか、日本研やアジア研究が発展しているにもかかわらず、これらの研究が未だに重要視されず副次なままなのが、過去40年間にわずかしか変っていないブラジルの教育の特徴的な欠陥です。なぜこの分野がブラジルで注目されないままなのでしょうか?少なくとも、次の点が関与しています。

1)ブラジルにおけるヨーロッパ中心主義ムブラジルは多民族社会として知られていますが、真に民主的な多文化国家になるためには、まだ多くの課題があります。1940年代から60年代にかけて、人類学者や社会学者によってかなり多くの移民社会研究が行われ、ブラジルの民族民主主義の理念は広く知られているとはいえ、モザイクのように在するいくつもの民族グループをただ表面的に結びつけているにすぎず、各民族グルーの文化的価値観やその明示・普及のないままです。

現在の政府が、たぶん国際化の要求と「経済的・社会的近代化」の必要性に迫られて、学校やメディアでもっと世界主義的な考えを促進することに関心を示し始めたのは実です。しかし、次に挙げるようなことも最近の流行と言ったところで、行動につながというより単に控えめな考えを表現しているにすぎないのです。教育改革、民族博物館驚くべき事にブラジルには東洋美術の美術館がただの一軒もないのです)、テレビでの学コースと文化的な番組といった案が宙に浮いたままです。

重要な事実は、現在に至るまでブラジルが文化的な焦点を欧米だけに、最近ではラテアメリカ南部の近隣諸国に、あて続けていることです。

2)物質的な支援の欠如ム経済的、政治的利益はいつも学問的関心と文化交流を刺激します。実際、ブラジルは日本以外で最大の日本人社会を有しており、アジアを除けば日から最も多くの政府援助を受けている国であり、また日本はブラジルにとってもっとも要な商業上のパートナーのひとつです。

しかし、ブラジル政府がそれが何であれ、社会的な事には相変わらずわずかな投資ししないため、アジア研究のためのセンターを設立または維持するために政府から資金を得するのがどれほど困難かは想像に難くありません。普通、大学当局からの特別な支援ありません。よくあるパターンは部屋、最小限の家具を譲渡し、展示、セミナーなどにずかな支援をすることです。外国の機関から援助金をうまく獲得できなければ、時にブジルの研究者は個人的に、あるいはセンターとして国や州の政府に援助を求めてみるこもあります。

日本の企業にとってアカデミックな研究は言うに及ばず、文化的、人的交流を増進、援することにも殆ど関心がありません。しかし二件例外があります。日系ブラジル人の行であるバンコ・アメリカ・ド・スルによるサンパウロ大学の日本研究センターへの支、ミナス・ゲライス州産業連合会(Federacao das Industrias do Estado de Minas Gerais)の本部にあり、先駆的な存在であるアジア研究センターがそれです。

私的、公的基金のうち、国際交流基金は他の地域と同様、ブラジルでも様々な奨学金度やプログラムを維持している他、文化的イベントを促進し、重要な出版物の資金援助しています。(例えば、ブラジル人による日本研究カタログ、サンパウロ市のいくつか図書館が所有する日本関連図書のカタログなど。)1994年に国際交流基金はサンパウロ市に活気にあふれた日本研究のためのセンター(日本語センター)を開設しました。川平和財団は、リオ市にある経済学と経営学の高名な大学院の日本研究センターを教年援しましたが、何年か前にこの協力関係は打ち切られました。

その他に、文化面での教育の分担は日本政府が引き受け、日系ブラジル人社会向けの学金や助成金プログラムを継続している他、ブラジル社会全般を対象に毎年様々な奨学や助成プログラムを提供しています。

3)民族コミュニティーとしての政治的重要性の低さム例えばアジア系ブラジル人の数をアジア系アメリカ人の数と比較すると、人口に占める割合は大変小さなものです。アジア系ブラジル人の中で圧倒的に多い日系でさえ、ブラジル人全体の1%にも及びません。)しかも、昨今、ブラジルへの日本人移民は殆どゼロに近い状態です。それに加、日系社会はかなり閉鎖的で、より公平で批判的な研究姿勢を持つ部外者による調査にし非協力的です。

4)教育のあらゆる段階で見られるアジア軽視ムブラジル人が高校でアジアについての授業を受ける時、もし生徒にそういうチャンスがあればの話ですが、その授業は極端にく表面的なものです。大学レベルでは、日本または中国のコースを専攻している学生以は、殆どの学生にとってアジアに関する常設コースは開かれていません。哲学専攻の学は殆ど欧米の哲学に限られた授業を受けます。歴史専攻の学生が受講するのはラテンアリカを含んだ欧米の歴史のクラスです。アフリカ史や「古代東洋」のコースもわずかならあるかもしれませんが、後者には得てして南、東南、東アジア地域が含まれていませ。一言で言えば、アジアはブラジルの教育カリキュラムから殆ど欠落しているのです。の点での例外は、日系人の子弟が集中しているという理由から、サンパウロやパラーニ州の少数の市が、初等レベル教育で日本語を教えていることです。

5)経験豊富な専門家への機会と地位の不足ム日本を専門とする人への資金的支援と職位の不足は深刻です。アジアの驚異的な発展を目にし、ここ何十年かで日本への興味はまったものの、ブラジルの学術界で日本はこれまで高い地位を占めたことがありません文学や経済分野の研究者たちはヨーロッパ、アメリカ、ラテンアメリカで何が起きてるかの方にもっと興味があります。社会学や人類学では原住民や農民、アフリカ系ブラル人といった地元のトピックに関心が注がれています。イデオロギー的な動機で、多く研究者が軽視されてきた貧しい人々を支援するために研究に取り組んできました。この味ではアジア研究のいくつかは広範な移民研究の一つにすぎません。(例えば1940年代のハーバート・バルダスやエミリオ・ウィレムスによる研究、1960年代のフランシスカ・ビエイラやラス・カルドソによる研究など)このような研究目的では、研究者が繁に研究対象を変えてしまうことから、ブラジルでのアジア研究が継続性をもたないとう状況につながりました。主な例外はブラジルの研究機関において堅個で首尾一貫した統を持つ日本語、日本文学でしょう。

6)最後に、共同組織がいまだに弱いことム日本研究はある程度のネットワークを作り上げてきました。地域的な日本語研究組織のいくつかが合併し、全国規模の組織となりした。全国日系ブラジル人研究会(Sociedade Brasileira de Pesquisadores Nikkeis)も設立されました。ブラジルで日本語、日本文学、日本文化を教える大学の教員が年に一度集う会議もあります。1991年には、ギルソン・シュワルツ教授と幾人かの研究者そして私とで日本太平洋地域研究ブラジル協会(Sociedade Brasileira de Estudos sobre o Japao o Pacifico)と名付けた全国規模の組織を設立するため、様々な機関から研究者が一堂に会することを目的としたプロジェクトを行いましたしかし、この協会が注目すべき、学問的にも重要な会議やワークショップを主催したもかかわらず、日系ブラジル人組織からの注目を集めるには至らず(目標に向けて色々力をしたのですが)、今後に向けて一層の活動と工夫が必要と言えます。全体として、略的ビジョン、コミュニケーション、交流の面で協会が抱える慢性的問題は根強く存在ます。

結論として、ブラジルの日本研究は期待薄です。とはいえ、様々な要素や関心を総合ればよい方向へ変わって行く兆しが見えます。最近、少なくとも世界規模の経済危機のには、ブラジルと日本の交流増進への関心は高まってきました。ブラジルはアジア太平地域との商業的絆を拡大するのに熱心です。(ブラジルの現大統領フェルナンド・H・カルドソは1994年に当選以来、日本、中国、マレーシア、インドをはじめとするアジア諸国を訪問しました。)日本からは天皇のブラジル公式訪問がありました。また、アア諸国政府はブラジルの巨大市場とMERCOSULの市場に注目しています。

教育の点では、奨学金を得てアジア、特に日本で勉強する学生とは別に、ブラジルでジアを専攻する学生が増加しています。サンパウロ大学の大学院プログラムやブラジリ大学の学部コースのように、新たなコースが大学で提供されつつありますし、パラーニ国立大学の学部レベル日本語コースのように今後提供を予定されているものもありま。

ブラジル国内でのネットワーク化は進みつつありますし、中南米、北米、アジアを初とする国外の研究者との接触も増えています。以前のような研究者間のコミュニケーシン不足は、ブラジルのアジア研究の情報伝達を容易にする目的で開設されたブラジリ大学のアジア研究センターによるウェブサイト(http://www.unb.br/%20ceam/neasia/ )などの新たな推進力によって緩和されてきています。アジア研究者のラテンアメリカネットワーク創設構想はアフリカ・アジア研究ラテンアメリカ協会の9回大会(Cartagena de Indias, Colombia, November 1997 )において、多数の国の代表者によって議論されました。この目的のため、メキシコ、コロンビア、アルゼチンで新たなウェブサイトやインターネットサービスが作られています。

こういった変化がブラジルでのアジア研究の将来的な発展に対する自信を生み出す基となっているのです。

この記事は1998年3月6-7日にカリフォルニア大学サンディエゴ校で開催された会議「ラテンアメリカと環太平洋地域との文化的出会い」で発表された論文から抜すいです

 

西洋の日本研究ー    ブラジルでの日本研究(上)

ロナン・アルベス・ペレイラ  ブラジリア大学

 

ブラジルのアジアとの関係は最近まで直接的なものではなく、歴史的に欧米の大国を介したものでした。16世紀から19世紀にかけての植民地時代、ブラジルとアジアの関係は宗主国ポルトガルが決定権を握っていました。ブラジルはポルトガル船が東洋の植民地(スマトラ、ゴア、ボンベイ、マカオ)に向かう際の単なる寄港地のようなものでした。ブラジル共和国となってからの最初の半世紀(1889-1945 )、アジアとの関係は最初はイギリス、次にアメリカによって仲介されました。この時期、欧米大国の例に従い、また主たる輸出品であるコーヒーの市場開拓の試みもあって、1895年、ブラジルは日本との間に初めて外交、商業条約を結びました。

 当時文化的に影響を及ぼし得たのはロマン主義者で後に外交官になったアルイジオ・アセベド(1857-1913)です。副領事として横浜に到着した彼は、日本についての先駆的な本を書く計画でいました。しかし、仕事とプライベートの両面でうまくいかないことが多く、ブラジル人が日本の実際の様子を記した最初の文学作品となるはずだったこの記録も、国際交流基金の支援を得てようやく出版されたのは1984年になってからでした。

 近代に入ってからブラジル人は国民としてのアイデンティティーに強い関心を持つようになり、「三人種神話」が顕著になったのもこの時代です。(ブラジルの国民を形成する過程で協同歩調をとった原住民、黒人、白人が、後になってからブラジルの「人種民主主義神話」に連なっていきました。)しかしアジア人はこの独特の状況において、物理的にも文化的にも周辺的な存在と見られ、そのころ広まっていた黄禍思想に基づくプロパガンダから生じた否定的なステレオタイプのために懐疑的に扱われていました。ブラジルでは他のラテンアメリカ諸国と同じように、アジア人、特に日本人を移住者として受け入れることに対し、様々な議論がありました。しかし、前世紀初頭にドン・ペドロが茶葉のプランテーションに中国人労働者を投入しようとして不成功に終わり、また、ブラジルの白人化をもくろむブラジル人エリート集団が、アジア人がそれをおびやかすのではとの恐れを抱いていたにもかかわらず、結局、日本人は1908年からブラジルへの 移住者として定着し始めたのです。
 日本が積極的にブラジルに働きかけるようになったのは、わずかここ50年のことです。1950年代から日本は投資やブラジルとの共同プロジェクトを通して、かつてなく躍進しました。ブラジルと日本の関係が頂点に達したのは1970年代で、何百という日本の事業者がブラジルに投資し、支店を開設しました。ブラジルは今もアジア・太平洋地域でのシェアの拡大に取り組んでおり、一方、アジアにとってブラジルの市場は進出可能なマーケットとして、またMERCOSULー円錐形を想起させる南アメリカ南部市場 ーへの入り口として大いに興味の的です。この様な外交上、商業上での発展と並行して、ブラジル人はアジアに対し好意的なイメージを抱くようになり、経済から映画、さらに宗教から電子機器にいたるまで、アジアに関する事柄により強い関心を示すようになりつつあります。

 日本研究はブラジルのアジア研究の中でもっとも優れかつ広い側面を持つ分野です。ここでいう日本研究とは三つの異なる意味を持っており、日本それ自体の研究、日系ブラジル人社会の研究、そして日本とブラジルの関係についての研究とから成ります。これまで、たとえば次に挙げるような実に多彩なテーマで研究が発表されてきました。「ブラジルへの日本人移民」「ブラジルでの日本宗教」「日本ーブラジル 貿易と協力」「日本語と日本文学」「日系ブラジル人の出稼ぎ」「茶の湯」「俳句」「舞踏」「能」「音楽」など。

 三つの分類のうちの第一項目、即ち日本自体の研究は言語、文学、経済、経営の分野で盛んで、政治、人類学、社会学でも見られます。実際、日本語と日本文学は大学や研究諸機関で強い勢力で発展しています。残念ながらそれ以外の分野、特に社会科学では研究者は孤立し、政治学、社会学、人類学といった各学部に分散し、日本またはアジアについての常設コースを維持するのが概して難しい状況です。

 日本語のコースは多数の州立、国立大学、そして少数の私立大学で提供されています。例えば公立大学で学部レベルの日本語・日本文学のコースがあるのは、サンパウロ大学(USP)、リオデジャネイロ国立大学(UFRJ)、リオグランデドスル国立大学(URGS)、パウリスタ州立大学(UNESP)、ブラジリア大学(UnB)です。成人向けコースで日本語があるのは、カンピナス州立大学(Unicamp)、パラナ国立大学(UFPR)、マリンガ州立大学、ロンドリーナ州立大学、バイア国立大学(UFBA)などです。また、歴史的にブラジルの殆ど全ての日本人社会、或いはそれに準ずる集団が日本語学校または日本語の語学スクールを保持してきました。この伝統は民間団体や日本の宗教グループによる新たな学校の設置を通じてさらに拡大されています。

 分類の第二項目は、民族研究として日系ブラジル人研究の深い伝統を取り上げたいと思います。日系ブラジル人社会を考察した社会科学のフィールドワークは、その初期、次のような現地学者によって開拓されました。ハーバート・バルドゥス、エミリオ・ウィレンス、タバレス・デ・アルメイダ、ゼンパチ・アンドー、斉藤ひろし。しかし、これらの研究は次のような日本からの研究者によりさらに一貫、継続して行われました。故いずみ せいいち教授(東京大学)、故・斉藤ひろし教授(サンパウロ大学)、前山たかし教授(静岡大学)なかまき ひろちか教授(国立民族博物館 大阪)など。アジアからの民族グループで日本人ほど研究対象として注目されたグループがなかったことは、658のタイトルを収録し出版30年を経た『ブラジルの日本人とその子孫:注釈付き著書目録』(ロバート・J・スミス、ジョン・B・コーネル、斉藤ひろし、前山たかし編、サンパウロ:日系ブラジル人研究センター1967年)が証明するところです。

 分類の三番目、日本ーブラジル関係の研究は、主に国際関係・協力、経済、貿易、経営の分野での取り組みから成っています。

 特定の研究機関のうちサンパウロ大学は、多分1930年代のいわゆるブラジルへの「フランス使節団」の影響が大きいのでしょうが、クラウド・レヴィ・ストラウスのような大家を含む優れた言語学の伝統を持っています。このことは、東洋言語学部で日本語、中国語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語、アルメニア語の学部コースが提供されていることに見受けられます。1996年にはブラジルで初めて日本研究の大学院生向けプログラムを開始しました。しかし、日本の古典言語や文学への志向はあるものの、その基盤となるインドや中国の古典の勉強や、これらの国々の歴史でさえプログラムに含まれずまた前提ともなっていないのは、奇妙です。この他に、この大学の高等研究所、戦略研究所、経済学部、スクール・オブ・コミュニケーション・アンド・アートなどにも日本についての研究者がいます。

 ブラジリア大学(ブラジリア市の公的機関)では、1997年に日本語・日本文学の学部コースが設置されたことで、日本研究が更に強化されました。一方、この大学のアジア研究センター(NEASIA or Nuleo de Estudos Asiaicos)はアジア太平洋地域の可能な限り多数の国とテーマを取り上げることで、研究を深め多様化をするよう努力しています。この研究所の強みの一つは自国の外務省と同様、他国の大使館とも緊密な関係を築いてきたことです。更に、ブラジルの公立大学で唯一の国際関係コースを持ち、アジア研究センターに勤務する若い研究者の多くがここから輩出されています。(次号につづく)。

 
この記事は1998年3月6-7日にカリフォルニア大学サンディエゴ校で開催された会議「ラテンアメリカと環太平洋地域との文化的出会い」で発表された論文からのものです。

 

東洋の日本研究ー中国の概要

周・啓乾    天津社会科学院日本研究所教授
1972年9月中日国交正常化以降、中国の日本研究は新しい段階に入り、前より活発になった。今は関係の学術団体・組織は20あまりあり、例えば中華日本学会、中国日本史学会、中国日本語教育学研究会、中華全国日本経済学会、中華全国日本哲学会、日本文学研究会、中国中日関係史学会などである。地方は、一部の省と直轄市にも日本研究の学術団体がある。

  日本研究機関は約50あり、大体三つの種類に分かれる。一、社会科学院系統:中国社会科学院日本研究所、直轄市の社会科学院の日本研究所或いは研究室;二、大学に付属する日本研究所と研究センター;三、政府機関に付随する研究所と研究室。今まで研究者は北京、天津、上海及び東北地区、東南沿海地域に集中していたが、現在、内陸部でも、研究が進んでいる。

  日本研究の定期刊行物は、総合的なものとして、『日本学刊』(隔月刊、中華日本学会・中国社会科学院日本研究所)、『日本研究』(季刊、遼寧大学日本研究所)『日本問題研究』(河北大学日本研究所)、『現代日本』(季刊、天津市現代日本研究所)などがあり、専門的なものは、『現代日本経済』(隔月刊、吉林大学)、『日本の科学と技術』(隔月刊、吉林省科技情報研究所)、『日本語学習と研究』(季刊、対外経済貿易大学)などがある。その外、不定期刊行物も若刊ある。

 各分野の研究について、ごく簡単に説明しよう。

 日本文学シリーズとして、古典の『枕草子・徒然草』、『源氏物語』、『万葉集』などは翻訳・出版された。近代作家では、尾崎紅葉、泉鏡花、幸田露伴、二葉亭四迷、徳富蘆花、山本有三、芥川龍之介、宮本百合子、葉山嘉樹、黒島伝治、川端康成、小林多喜二、徳永直の小説選集が刊行された。その外、夏目漱石、森鴎外、谷崎潤一郎、永井荷風、佐藤春夫、有島武郎、島崎藤村、石川達三、井上靖、松本清張、水上勉、山崎豊子、三浦綾子、司馬遼太郎、有吉佐和子、三島由紀夫らの作品が出版された。

  日本の歴史と中日関係史について、古代の徐福東渡に関する研究がさかんになり、肯定と否定を廻って論争が行われている。近代については、明治維新の性格について、ブルジョア革命、絶対王政、ブルジョア民族民主運動としてのブルジョア革命など諸説がある。明治維新の時期区分についても、その始点をペリー来航の1853年とすることには合意しているが、その終わりについて、いくつかの説があり、論議されている。例えば、1853-1869年を幕末・維新・内戦と再建の時期とするか、1853-1911年をブルジョア革命の時期とするか、或いは、それぞれ憲法発布政権の1889年、国会開設の1890年、日清戦争の1894年を終わりとするなどの諸説である。王芸生編『60年来中国と日本』は、1870年代ー1930年代の中日関係の主な史料を集めて、1930年代に初版、1970年代には改訂再版がでた。1980年代後半には、中国人学者の執筆陣による『東アジアのなかの日本史』全13巻(日本語版)で古代から現代までの日本史と中日関係史を知ることができるようになった。

  日本経済について、その高度成長を注目し、中小企業の管理経験、マクロコントロール、科学技術の発展、技術立国、貿易立国、財政、金融、対外投資、冷戦後日本経済の行方、アジアにおけるその地位と経済協力など諸問題を研究した。『戦後日本双書』全10冊の中で、8冊の内容は経済で、産業政策、インフラストラクチャー、財政、対外貿易、独占資本、経済社会統計など諸内容に触れた。今の研究は今後発展の見通しに関心を持ち、その産業構造の変化、経済構造の調整、科学技術及び対外経済関係の展望なども視野に入る。

  日本の政治、法律について、戦後の体制改革に注目し、それとともに、憲法と国会、経済立法、教育立法、政党の政策制定と、派閥公務員制度と行政改革も触れた。日本の外交と総合安全保障戦略の研究は、明治維新後、富国強兵を重点にし、拡張的な軍事侵略をしたが、戦後復興中においては、経済優先戦略の下で、貿易立国、経済大国を目標とし、その後、さらに政治大国と国際国家を目差し、経済力を後楯とし、外交と防衛力を強め、米国の同盟国と西側の一員として活躍し、重点をアジア・太平洋地域において、全世界に役立てることを期待すると指摘していた。

  紙面の関係で、日本哲学・宗教などの研究に関する内容は省略するが、中国日本研究の全体像について、北京日本学研究センターより刊行された『中国日本学年鑑』が詳しい。

(本文は若干の訂正を除き原文のまま掲載しました。)

 

西洋の日本研究ー ロシアの日本学と日本に対する考え方

                     ピーター・バートン南カリフォルニア大学国際関係学名誉教授

 

日本を研究してきた西洋諸国の人々(ロシア人も含めて)には、学者だけでなく、政治ジャーナリスト、ビジネスマン、軍関係者、科学者、芸術家、布教者、外交官、その他政府高官など様々なバックグラウンドを持ち合わせた人々が見られます。日本関係のもっとも優れた本のいくつかは、学者によって書かれたものでなく、優れた言葉のセンスを持ち、自分の仕事を楽しむアマチュアの人達によって書かれています。日本歴史研究において最も有名な専門家の一人は、影響力を持つJapan: A Short Cultural History(日本文化史)などの著者であるサー・ジョージ・サンソンですが、彼は学者ではなくイギリスの外交官でした。今日では、人々は、彼がどうやって日本語や日本の歴史、文化を勉強する時間を見つけたのかを不思議がります。その答は、彼は1904年の日露戦争の直前に経済問題を担当する外交官として日本に赴任し、日英の貿易と一般的な経済状況について毎週レポートを書かなくてはならなかったのです。しかし、彼のレポートをイギリスに運ぶ船が一ヵ月に一度しか横浜港に来なかったので、彼は3つか4つ目のレポートに「私の前回のレポートにて予想した通り」と書くことができたのです。その結果、彼は自由時間を有意義に使ったということです。

ロシア人の存在は、近代の日本に携わってきた、この幅広い背景を持つ日本学研究者達の間で顕著になってきました。初期の有名な例は、捕虜として3年間を日本で過ごしたワシリー・グローフニン船長です。1818年には英語でも出版された彼の日本での生活の話は、19世紀初期の日本と日本人に関する情報源としてとても貴重なものとされています。

他の西洋のおもな国々でもそうだったように、日本を潜在的敵国としてみなす考えが、後にロシアにおける日本研究を活発化しました。ロシア皇帝の情報機関は日露戦争以前から日本を標的ととらえ、第二次世界大戦中のアメリカ海軍による華々しい成功より前に、日本の外交暗号を解読するのに成功していました。このような早くからの熱心な日本研究にもかかわらず、 ソ連の日本研究は、20世紀には沈滞しました。第二次世界大戦以前には、マルクス・レーニン主義の支配が、他のブルジョア社会の研究と同様、日本研究にも破壊的な影響を与えました。その当時、研究されるトピックといえば、小作の暴動や労働者のストライキ、そのほか日本社会における「矛盾」といった、政治的に正当と考えられたものに限られました。にもかかわらず、ソ連の学者達は、多くの重要な日本の歴史的、文学的作品の翻訳に貢献しました。

冷戦は、ソ連における日本研究の発展に否定的な結果をもたらしました。第二次世界大戦後は、日本の「再軍備」の脅威や日本の「独占資本」等のあまり重要でないことに多大の注意が払われていました。もちろん、ソ連の学者の中には、日本の現実の姿とソ連のメディアによって政治的に作り上げられた日本の姿の違いを知っている人もいました。しかし、ソ連は強硬的なイデオロギー信奉者によって支配されており、これらの学者がソ連の対日政策に、なんらかの影響を与えることはありませんでした。日本が経済大国として名をあげてくると、徐々に日本のマネジメントの研究や日本の経済の奇蹟における秘密が注目されるようになり(アメリカでも同じようなことがおこったように)、ロシアの情報機関は日本や日本研究に以前以上に予算を費やすようになりました。

当然ながら、日本を研究する人達の母国と日本の関係は(友好的、中立的、あるいは敵対的であろうと)、日本に対する見解に影響します。20世紀の変わり目でさえ、叙述の著しい違いは西洋諸国において明白でした。日本と同盟関係にあったイギリスの場合、好意的で、日本との対決の間際にいたロシアの研究者による描写は非好意的でした。さらに、日本研究者の日本への到着の歴史的タイミングが日本に対する見解に影響しました。言い替えれば、日本の相対的な状況(日本が貧しいか豊かか、勢力があるかないか、安定しているかしていないか、開放的か鎖国的か)が研究者の分析や予測に影響を与えるのです。このように、外国人訪問者や日本学研究者の日本に対する態度は、その人達が、厳しい鎖国政策の時、徳川政権の後半から明治時代初期の変わり目、日本が中国、ロシア、ドイツに勝利したあとの傲慢な時期、1920年代の比較的民主主義的な時期、あるい1930年代と1940年代初期の軍事的で狂信的愛国主義の時期、これらのどの時期に日本に到着したかに影響されます。

アメリカの日本学研究者の場合、この日本到着の時期の違いは少なくとも四つのカテゴリーにわけられます。一つ目のカテゴリーは、1930年から1941年の戦前の時期、二つ目は、1945年後半から1950年代の占領と復興の時代、三つ目は1960年初期から1970年代の社会的不安定の時代(この時代に到着した人々は、日米安全保障条約改訂へのデモや暴動、学生運動などを目撃しました)、最後の四つ目は、1970年代半ばから現在に至る豊かな時代(この時代では、人々は、世界第二の経済大国になった日本を見ました)。最初の時代に日本に到着した人々は、帝国主義で軍国主義の最悪の日本を見ます。このグループの中で、中国と日本の関係を書いた人達は、たいてい中国に同情的で日本に対しては批判的です。二番目の時代に到着した人々には、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍もしくは海軍の日本語学校において日本語の勉強を始めた人がたくさん含まれており、日本の最も弱い時代を見ています。この時代、日本では、都市は荒廃し、産業は行き詰まり、日本人は飢えに苦しみ、こびへつらうような態度をとっていました。しかし、四番目の時代に日本を見た人々は、軍国主義的日本、荒廃、もしくは社会的不安定といった印象を一切持ちませんでした。

ソ連/ロシアの日本学研究者の日本に対する態度にも、同じ様なことが見られます。彼らが、占領下の日本にソ連の使節団とともに来日したか、初期の経済復興時期に来たか、あるいは日本の経済がソ連経済を追い越した時期に来たかで日本に対する態度に違いが見られます。日本に実際住んで、直接日本を見た人と、日本を訪れる機会がなく、日本の現実というものをソ連の歪曲された報道にたよるしかなかった人とでは、日本に対する見解に明らかなる違いが見られます。

この様な見方を背景にして二人の亡命ロシア人日本学研究者の数奇な経歴を見るのも興味深いことかもしれません。

そのうちの一人は、アレキサンダー・アレクセイヴィッチ・ワノフスキー(1874-1967)です。ロシア帝国軍の士官の息子であるにもかかわらず、彼の政治的見解は、プロの革命家になった兄のヴィクターの影響を強く受け、V.I. レーニンの兄弟のようにロシア帝国支配との深い争いに陥りました。ワノフスキーは、1898年に開かれた最初の議会にてロシア社会民主労働党(後の、ソヴィエト連邦共産党)の創立者の一人となり、1905年にはキエフとモスクワでの不成功に終わった暴動のリーダーとなりました。一時の亡命の後、第一次世界大戦の勃発時には、軍隊に入隊し、ペトログラードの通信専門学校に送られ、ハバロフスクにあるラジオ局の局長に任命されます。そこで彼は、革命、内戦を目撃し、神経衰弱に陥ります。日本人留学生で、将来、南満州鉄道のロシア研究センターを創立することになるシマノ・サブロウをよく知っていたため、日本に移住することができ、早稲田大学のロシア文学の教授としてのキャリアを成功させました。彼はまたVolcanoes and the Sun: A New Concept of the Mythology of the Kojiki(火山と太陽)と題された古事記についての論文を書きました。彼は、日本語が得意ではありませんでしたが、ロシア人の友人で古典的な日本語に達者なM. P. グリゴリエフを通して日本の初期の資料を入手しました。

しかし、日本学研究者のなかで、もっとも有名なのはセルゲイ・エリセーエフ(1889-1975)です。彼は、ペテルブルグに住むとても裕福で文化的な商人の家庭に生まれ、10代でベルリン大学で中国語と日本語の勉強を始め、19才で東京帝国大学への留学を認められた最初の西洋の学生となりました。その後、彼は、ロシア革命から逃れ、ソルボンヌで教師となり、1932年から1957年にかけてはハーバード大学にて教鞭をとりました。多分、エリセーエフは、世界最初のアマチュアとは一線を画する本格的日本学研究者とみなすことができるでしょう。

エリセーエフは、彼のキャリアにおいて代表作を作り上げはしませんでした。それは、多分、彼が行政と授業で多忙であったのと、フランス人がいう「joie de vivre」つまり「生きる楽しみ」の精神を持っていたからでしょう。しかし、エリセーエフは、ハーバードにて学識の深いきちょうめんな学者、刺激的で厳格な教師、影響力がある指導者、義理堅い友人、優雅な生活の卓絶したマスターとして非常に高く評価されました。また、彼の関心の幅の広さは、伝説となるほど有名です。彼の教えることへの喜びも有名で、惜しみなく彼の時間を個人のリーディング・コースに費やし、定期的に火曜と木曜の11時から12時半まで日本の歴史や文学の講義をしました。その授業は彼独特の熱っぽく、機知にあふれた雰囲気の中で行なわれました。しばしば彼は1時のベルでランチのことを思い出すまで、たゆみない熱意をもって授業を続けました。一方で、彼は簡単に脱線し、彼の生徒だった一人は、古文の授業に準備せずに出席した時には、エリセーエフに「日本の尼僧は帯をどうやって結ぶんですか」などの難しい質問を投げかけたことを記憶しています。教授は、古文のことを忘れて、長い講義に乗り出しました。エリセーエフは、ロシア語、フランス語(使用人達が理解できないようにと、家ではフランス語を話していました)、ドイツ語、英語、ギリシャ語、ラテン語、日本語、中国語、韓国語、満州語を話しました。ロシア語、フランス語、英語で講義をし、普段はフランス語で考え、疲れたときは、ロシア語で考え始めると話していました。彼は、また素晴らしいユーモアの持ち主でした。彼の出席した1912年の東京帝国大学の卒業式は、明治天皇が出席した生前最後の公の行事でしたが、その卒業式で、彼は優れた学生として一番前の列に座っていました。のちに、エリセーエフは、ユーモアたっぷりに、卒業生のなかに西洋人の顔をみつけたショックが天皇の死去を早めたのだと話したそうです。

エリセーエフは、彼の学問業績を評価する多くの名誉を受けました。1946年に、フランス政府は彼にレジョン・ドヌール勲章五等を与えました。アメリカでは、1954-1955年度のアメリカ・オリエンタル・ソサエティの会長に選ばれ、1957年にハーバードを退職するさいには、彼が創刊したHarvard Journal of Asiatic Studiesの特別号が捧げられました。日本では、1968年には瑞宝章を与えられ、1973年には、日本と日本の文化を自国の人々に広めるのに貢献した外国人として最初の国際交流基金賞を受賞しました。

しかしながら、同時に彼の教育的貢献は、フランスとアメリカだけにみられました。教え子の一人で、ハーバード大学名誉教授のハワード・ヒベット氏は「皮肉にも、セルゲイ・エリセーエフの業績は、彼の母国であるロシアよりもヨーロッパとアメリカのためになるものであった」と話しています。1999年7月にモスクワでひらかれた会議で明らかなように、最近になって、ようやく彼の業績は、母国ロシアでも認められ評価されるようになりました。

1999年7月2日、セルゲイ・エリセーエフの業績を称えた会議がモスクワで行われました。この文章は、その会議において、バートン氏によって発表された論文から抜粋されたものです。この論文の全文は、ロシア語の会議録に掲載される予定で、電子メール(berton@usc.edu)で入手することも可能です。バートン氏は、エリセーエフ教授のハーバードでの教え子であった人達、ハーバード大学のハワード・ヒベット教授、プリンストン大学のマリウス・ジャンセン教授、ハーバード大学のヘンリー・ロソフスキー教授、そしてカルフォルニア大学バークレー校のドナルド・シヴェリー教授が電話でのインタビューを通してエリセーエフ教授との個人的思い出を提供してくれたことに深く感謝しています。明治・大正時代の精神にのっとって、「大変、お世話様になりまして、心から感謝いたすところでございます。」 


西洋の日本研究ーヨーロッパ日本研究協会(EAJS)の歴史

               イアン・ニッシュ            ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス

 

1976年9月、EAJSの第一回目の公式会議がチューリッヒ大学で開催されました。といっても、この会議以前に、ヨーロッパの日本研究者達が会合を開いたり、意見を交換していなかったわけではありません。ヨーロッパの日本研究者は、1967年8月にアンナーバーのミシガン大学で開かれたインターナショナル・オリエンタリスト会議の日本部門や、1972年11月に京都で日本PENクラブが開催した日本研究国際会議に多数参加しました。日本研究国際会議においては、ヨーロッパの15ヶ国から47人の研究者が京都の都ホテルに集まった際、ヨーロッパ全域にわたる日本研究の学会を創立しようというアイデアが生まれました。その結果、1973年4月に、予備会議が、最初はオックスフォードのセント・アントニー校、次に、ロンドン大学の東洋アフリカ学部でひらかれました。この会議では、言語、文学、歴史、社会学、そして経済学に関する学術論文が発表されました。EAJSの会議は、今も、これらの学術分野での研究を中心として構成されています。1973年の予備会議で発表された論文は、1975年にW.G. ビアズリー教授の編集のもとModern Japan: Aspects of History, Literature and Society(近代日本歴史、文学、社会の様相)という題で出版されました。またその時、ヨーロッパ日本協会(European Association for Japanese Studies, EAJS)を直ちに組織するべきだということが決定されました。このような経緯から、この会議はEAJSの開会の会合だったといえるでしょう。

この協会の主な活動は、3年に一度、会議を開催することです。この会議は、日本研究が盛んな様々な場所で開かれます。この会議は、参加者がヨーロッパ全域で行なわれている様々な日本研究に触れたり、この分野に新たに参加した研究者と交流する絶好の場を提供します。出版費用の上昇に拘わらず、これらの会議で発表された論文のほとんどが出版されてきました。これらのオープン・コンファレンスの参加者は、日本やアメリカ、その他の国々からの多くの専門家研究者と意見を交換する機会をもつことができます。日本人類学ワークショップ(JAWS)やヨーロッパ日本資料専門家協会(EAJRS)等の専門科目ごとに分かれた会議は、当初3年に一度開かれるEAJSの会議と合同で開かれました。しかし、現今では、EAJRSはこの仕組を廃止し、EAJS以外のところで年一回の会議を組織しています。

EAJSの会議は、3年ごとに総会と合同で開催され、そのとき郵便投票で選ばれた新しい役員が評議会に就任し、EAJSの運営についての議論がかわされます。3年間在職する役員は、会長、会計、書記です。この3名と前会長及び幾人かの選ばれた役員が評議会を形成し、3年間の間協会を運営します。

歴代の会長と担当した会議は以下の通りです。
  1973-74ムパトリック・オニール教授 (1973年 セント・アントニー校、ロンドン校会議)
  1975-79ムヨゼフ・ クライナー教授 (1976年 チューリッヒ大学、1979年 フィレンツェ大学)
  1979-82ムチャールズ・ダン教授  (1982年 ハーグ)
  1982-85ムオロフ・リディン教授  (1985年 ソルボンヌ、パリ)
  1985-88ムイアン・ニッシュ教授  (1988年  ダーハム・キャッスル、ダーハム大学)
  1988-91ムゼップ・リンハルト教授(1991年 日独センター、ベルリン)
  1991-94ムアドリアナ・ボスカロ教授 (1994年 コペンハーゲン大学)
  1994-97ム イルメラ・ヒジヤキルシュネライト(1997年 外国貿易大学, ブダペスト )

EAJSの活動は、ヨーロッパの様々な国、大学で見られます。会議への参加者も着実に増加し、1994年のコペンハーゲン会議では、400人の研究者が参加しました。研究分野も多岐に渡ってきています。会議の手配は開催地の地元の委員会や、時には、日本研究学会に委ねられます。

大学がその職員により多くの責務をゆだねる傾向がある中、EAJSの運営は役員の献身的な活動に頼ってきました。EAJSは会費によって運営されていますが、その他に国際交流基金の支援や資金援助を受けています。1975年から1976年にかけて、EAJSは同基金の助成金を受け、活動をさらに広げることができました。助成金は、日本研究者が会議に出席したり、発表された論文を出版するのにも役立ちました。1994年には、EAJSは事務所を設立するための5年間の助成金を獲得しました。この他にも、基金の地元の代表や日本大使館からも多大な援助を受けています。

多国籍組織としてのEAJSは、役職の選挙を行う際、国籍のバランスを保つのに努力してきました。日本研究の分野は多岐に渡るため、EAJSは歴代の会長のリストが示すように、学術分野間で公平に代表が選ばれるように配慮してきました。EAJSは功績を残した研究者を賛える名誉会員制度を持ち、以下の研究者に授与しました。

  シャルル・アギュノエ(仏、1896-1976)
 フランク・J・ダニエル(英、1900-1983)
  マーティン・ラミング(独、1899-1988)
  アレキサンダー・スラウィック(オーストリア)
  チャールズ・ダン(英、1915-1995)
  ウイスロー・コタンスキ(ポーランド)
  フリッツ・ヴォス(蘭)
  フォスコ・マライニ(伊)
  ルイス・アレン(英、1922-1991)
  オロフ・リディン(デンマーク)

このように、日本に関係した殆どの分野から名誉会員が選ばれています。

EAJSは、42ヶ国のメンバーで構成される団体へと発展しました。この42ヶ国には、ヨーロッパ以外の国も含まれています。現在、EAJSには650の個人会員と35の団体会員が所属しています。また、EAJSは、日本研究に従事する様々な人に門戸を広げているため、会員の中には、著名な学者から、若手の学者、大学院生が含まれています。EAJSの活動は、言語・言語教授法、文学、宗教学・思想史、歴史・政治・国際政治、経済学・経済社会史、人類学・社会学、都市・環境学、ビジュアルアーツ・パフォーミングアーツの八つの学術分野に分かれて行われています。EAJSは、ヨーロッパの多数の国から芽を出した地元の日本研究団体の努力を調整し、1996年までは半年毎に、1997年からは年に3回発行されるようになったEAJSの会報を通して、情報サービスの役目を果たすことを念頭において活動してきました。


本文化研究における画像資料と最新技術応用の可能性ム国際日本文化研究センター:  (日文研)における日本研究の新しい動向

                 助教授 渡辺雅子            国際日本文化研究センター


 

国際日本文化研究センター(以下日文研)は1987年に文部省の大学共同利用機関として比較の視点を取り込み学際的に日本研究を行うため、また世界各地の日本研究に携わる研究者への研究協力を目的として設置されました。文化の総合的な研究推進のために、自然科学・社会科学・人文の異なる分野の教官が中心となり共同研究をおこなっています。現在は2~3年計画で15の共同研究が行われています。センターでは29人の専任教官のほかに、常時世界各地から15人の客員研究員を招いて共同研究やセミナー・国際研究集会・シンポジウム・講演会を開催しています。

日文研の特徴として日本文化を多面的に研究することが挙げられます。その手段として画像資料(visual images)をいかに文化研究に役立てるか、という課題に若手研究者を中心に取り組んでいます。画像資料は方法論や理論が確立しておらず、データベースが完成しても検索システムが確立していないために研究資料として軽んじられ、補助的に使われることが多いのが現状でした。しかしながら、「文化」を扱う研究においては、筆舌には尽くし難くても、一目瞭然ということがあるものです。

一例をあげれば、白幡洋三郎教授は日本のイメージが外国人によってどう作られ、変化してきたのかを日本を紹介した本の挿絵や明治時代に撮られた土産用の古写真をもとに解明しようとしています。現在これらの挿絵や古写真はデータベース化され、様々な分野の基礎資料として応用されるための検索システムが検討されています。

また栗山茂久助教授は、従来文字資料のみに頼っていた医学史の研究を古代ギリシャ・中国・中世ヨーロッパ・日本の解剖図を手がかりに行っています。栗山助教授は、画像資料の見方そのものについて、さらには画像資料をどう方法論として確立するかについて「画像資料が語る身体の文化史」という共同研究を主催されて論じています。そこでは「理性的な」認識のみならず、画像から見えてくる「感覚的な」認識をどう研究成果に盛り込んでいくかもテーマのひとつになっています。

美術史が専門の稲賀繁美助教授は、絵画と言葉の関係について、今まで西洋のレトリックで語られてきた絵の解釈、特に西洋人が描く東洋の絵画を東アジアと日本の視点から再分析することによって近代美術の文法とカテゴリーの再考に迫ります。

 画像研究のもうひとつの流れは、最新のテクノロジーを活用して文化研究を定量的に行おうというものです。応用情報学が専門の山田奨治助教授は、ある浮世絵作家による作品と別の浮世絵作家による作品がどの程度似ているのかということを数量化する研究を行っています。最近は、歴史資料に残された筆跡の類似性を数量的に鑑定する試みもなされています。人文科学研究に工学的な方法論を使い、その結果を工学の記述方法で表す山田助教授の試みは『文化資料と画像処理』という本にまとめられ、近々刊行されます。

このような研究を推進するため、日文研では1999年4月に文化資料研究企画室 (Office for Virtual Resources)を設立しました。ここでは画像を中心とする様々な文化資料をデータベース化し、多くの研究者がこれらの画像資料を基礎資料として使えるような検索システムの開発をします。研究者と技術者の橋渡しをして新しい研究環境を作ることを目的にしています。

企画室の中心となる森洋久助教授は、ひとつの地域の古地図から現代の測量図までを時代を追って重層的に重ねた地理変換図を作成し、さらにその上に歴史文化情報を載せた新しいタイプのビジュアル・データベースの構築と開発を行っています。複数のプロジェクトがお互いに無関係に入力した、様々な地域・様々なレベルの情報が立体的・視覚的に検索出来る、分散型のサーバーとブラウザーを研究開発しています。

最終目標は、全世界の地理変換図と歴史文化情報ですが、まず京都から始める予定です。この企画室がかかわる計画中のプロジェクトとして、「洛中洛外図」の3次元モデルがあります。これは17世紀の京都の町を描いた「洛中洛外図」を立体的に再構成した仮想現実の中を自由に歩きまわれるようにするというものです(研究代表者ム文化人類学赤沢威教授)。これは凸版印刷との共同で行われ、凸版は技術面のサポートをします。「洛中洛外図」は17世紀当時の建築物や京都の風景のみでなく、僧侶、商人、貴族、職人など総数2,728人にもおよぶ人々が描かれています。それは一級の美術品であると同時に、政治・文化・経済・風俗の記録でもあるのです。2次元の絵を立体的な3次元の絵にするために、日文研の建築学、歴史学、美術史、文化人類学、社会学、情報処理学を専門とする多くの教官が、当時人々はどのように歩いたか、商品はどのように並べられていたか、街中ではどんな音が聞かれたのか、などを共同で研究することで17世紀の古都の追体験を可能にしようとしています。このプロジェクトはまだ計画段階ですが、すでに北米の大学から日本概論や、美術のコースの教材として使いたいという問い合わせが寄せられており、本格的なプロジェクトの開始が待たれます。

今回ご紹介した取り組みは日文研の研究活動のごく一部ですが、日本における文化研究の動向の一端がお知らせできればと思います。

ビジュアルイメージを主題にしたいくつかのデータベースは日文研のホームページを通して登録後に閲覧していただけます。 (http://www.%20nichibun.ac.jp/)